Opinion

「研究」論 専門性の追究と大局的視点

 「いつも『ウルトラマン』ばかり見ているのですか?」と聞かれることがある。これは調理師に「いつも料理ばかり食べているのですか?」と問うのとあまり変わらない。調理師にとってはおそらく、料理を食べることは欠かせないことだとは思うが、食材を集めたり、調理法を研究したりすることが不可欠だろう。
 私も同じで、『ウルトラ』シリーズをよく見ると同時に、何を扱うか、どのように研究するか、そんなことを考える。作品内部のみを精査する「閉じた研究」ではなく、「開かれた研究」にするためには、現代社会をよく見なければならない。通常、文学作品には普遍的な問題が描かれているが、『ウルトラ』シリーズも同様だ。古い作品に内在する問題が今だから浮き彫りになる。そんなこともある。
 今ではマンガやアニメの価値が広く認められている。2008年に東京芸術大学に「アニメーション専攻」が設けられたことは、象徴的な出来事だろう。特撮作品とアニメ作品は異なるが、どちらにせよ、以前は軽く見られがちだったジャンルだから、それが価値あるものと認められることは意味のあることだ。しかし、特定の分野を「狭く深く」探求することになるのではないかという一抹の不安もある。
 齋藤孝氏は「世の中をガンダムの世界観だけで語ろうとする人がいる」ということを、『ガンダム』の原作者、富野由悠季氏自身も危惧していることに触れつつ語っている。それでは世界が見えなくなるどころか、おそらく『ガンダム』の本質をも見失ってしまうだろう。
 映画評論家で、東大総長を務めた蓮實重彦氏は、大学に映画学科や漫画学科、アニメ学科を作ることには懐疑的だ。優れた研究者の多くは、大学に映画学科など完全なかたちで存在していなかった時代に先駆的にその学問をした人たちであると述べている。
 特撮作品やアニメ作品の研究についても同様であると考える。これらの作品は、現実社会を生きる作家たちに内在していた問題意識の集合した総合文芸であると捉え、自らの感性と論理に基づいた広角な研究が進められるべきだ。その基底にはマクロで、ボーダレスな教養、すなわちリベラルアーツが求められると考えている。
 ただし、このような教養はあまりにも広大な沃野を抱いている。マクロな教養を修めてから、ミクロ=細分化された専門分野に進もうとするのは、決して効率的とは言えない。教養=基礎的なものという既成概念を捨て、両者を並行して学んでいくべきではないだろうか。
 「木を見て森を見ず」「井の中の蛙」。これらは共に、細部に穿ちすぎて大局を見損なうことを喩えたものだが、木を詳細に見る視点と、森を俯瞰する視点の両方を持つことが理想だ。井の外の大海を知れば、井の中のことも知りたくなる。その時は、井の中の蛙になれば良い。
 マクロな研究とミクロな研究とはそれら自体が、序列を持つものではない、と考えれば、学ぶことは尽きなく生じてくる。