Opinion

「学校では教えてくれない〜」 アンチ学校の言説

 内田樹の『下流志向』は教育者必読の書と考えるが、そこには現代特有の「学ばない」風土が誕生した由来として、「勉強なんかできなくても…」という言い回しが、いつしか「勉強なんかできない方が…」という、勉強しない(できない)人間を肯定する意味として世間に受容されていったことが挙げられている。
 数年前、韓国や中国の大学生が私の勤務する学校に教育実習生として来たのだが、二人の話からわかったのは、韓国や中国では努力して勉強することは、「正しいこと」「立派なこと」そして「かっこいいこと」という意識が存在しているということだった。
 今はかなり改善された気がするが、一頃(80年代だと考える)、間違いなく日本では真面目なことが揶揄される時代があった。規範的な物言いは野暮でしかなく、時代の求める軽妙洒脱さからは遠く隔たったものであった。
 学校、そして「学校的なもの」は規範の象徴であり、いつしか実社会ではあまり役に立たない形骸的でつまらないものを教え込む装置と位置づけられた。
 そんな「アンチ学校」という集合的無意識が、綿々と世に存在し続けていると感じてしまうのが、「学校では教えてくれない〜」とか「教科書には載っていない〜」という言説だ。この表現からはどうしても「学校で教えるのは実社会では役に立たないこと」「学校で教えるのは無価値なこと」という無意識が見え隠れする。そして学校で教えないようなことにこそ意味があると言わんばかりだ。
 しかし、実際には今ほど、学校的なものが求められている時代もない。学力向上は国を挙げての一大事業となった。テレビを見れば、少し前まで池上彰は引っ張りだこだったし、難読語を問うなどのクイズも多く、今ほど教養バラエティが盛んな時代もない。
 実はみんな、学びたかったのだ、知りたかったのだ。と考えれば、今の風潮は歓迎すべきだが、テレビの弱点は、そこで披瀝される知識を身につけて終わるという、一種トリビア的なものに終始しがちなことだ。トリビアに価値がないというのではない。むしろ広範な雑学は無駄になるものではない。だが一方で、学問とは体系的なもので、時間を掛けて継続的に学ぶべきという性質を持っていることを考えなくてはならない。体系的な学習の中で、手持ちのピースの居場所を知り、完成された絵の全体を模索できるようになる。まだ埋まらないピースが何であるかを知れば、自分が何を学ぶべきなのかがわかる。
 そんな体系的な学習の場となるのが、学校なのだと思う。「学校では教えてくれない」から「学校だから教えてくれる」、そんな言説が飛び交うようにしなくてはと思う。