Opinion

口コミが「一流」を「三流」にすることはないか

 「口コミで広まる」ものは良いものだと思っていた。
 この口コミを可視化、制度化したものがAmazonや食べログなどのレビューということになる。

 この圧倒的な人数の素人、非専門家の視点で、プロの創作物を評するということには、一長一短があるように思う。そのプロと何らの関係がない他者からの視点は極めて客観性を帯びたものであるとは言えそうだ。
 けれども、先日の川越シェフの件では、主に短所のほうを考えてしまった。

 川越シェフの店で飲食した客が、店への酷評をする。それは知らぬ間に、水に課金されていたことが発端のようだった。川越シェフにとってはそれが心外な評価であったらしく、年収が高くない客層には理解してもらえないとの旨を発言した。(後に謝罪に及んだ)

 客は自らの年収に見合った店を選ぶということに縛られるべきではない。店が客を選ぶのではなく、客が店を選ぶのは当たり前のことだ。けれども、よりハイレベルなもの−−−それが料理であれ、芸術、文学であれ−−−の良さを受容するには、消費者の側にもハイレベルな審美眼(料理の場合は「審美舌」とでも言うのだろうか)がなくてはならないのではないか。

 ピカソの前衛的な絵画も、メディアの発達した今日に誕生したものであったなら、専門家の厳しい審美眼によって高い評価を得る前に、素人による「わかりやすい/わかりにくい」という単純化されたコードに晒されて、落書きとして終わっていたかも知れない。

 ヨーロッパでは、日本とは比較にならないくらい、階層がはっきりしており、低階層が多い地域には美術館や図書館がないということもあるそうだが、これは飲食店に関しても同様で、高級店に、低収入層が行くことは推奨されないのだという。これは、分不相応な浪費を防ぐというよりは、サービスを提供する側のレベルに応じた消費者にこそより理解を得られるという、マッチを重視したものだろう。

 日本で、そこまでの階層化が進むことはまったく願わない。しかし、場合によっては自らが素人、非専門家であることをよく自覚することや、同じく素人や非専門家が大挙して成立しているのが、Amazonや食べログのレビューなど、ネット上の「口コミ」であるということを認識しておくことは重要だろう。

 専門家のつくった「一流」を、素人や非専門家が「三流」のレッテルを貼ってしまえば、「一流」は育たず、誰にでもわかりやすい、求めやすいものだけが「良いもの」になってしまう。