
SUMMARY
「特撮とは何か―」アニメやゲーム以上に、定義に困難が生じるのが特撮である。もともと、特殊撮影という”技術”を指した「特撮」は、やがて特殊撮影技術を駆使して作られ、怪獣やヒーローが主体に描かれる”ジャンル”を指す語となる。しかし「特撮である/特撮ではない」の弁別は困難であり、では便宜的にはどう定義づけるのが妥当なのだろうか。また、ポップカルチャー研究が活況な中で、特撮研究が、「ゴジラ」、「円谷英二」といった重要事項を除けば、活況とは言えない背景には何があるのか―特撮研究と『ウルトラマン』シリーズ研究、双方の先行論を見返しつつ、この問題を考えていく。
特撮の定義
特撮の定義―どこまでを特撮にカテゴライズするか
/特殊撮影技術は映画史の原初から見られるものだが、そのような技法を用いた映画を押し並べて「特撮」と言うものではない。怪獣やヒーローの出る作品群をひとまずジャンルとしての「特撮」とするとして、では『怪奇大作戦』のような作品は特撮と称し得るのか。このような問いに対し、作品のもつ脈絡―制作者(社)、スポンサー、雑誌展開、受容の様相…―を踏まえる必要がある。
→詳細は博士論文「はじめに」参照
特撮、『ウルトラマン』シリーズをめぐる先行研究
特撮の研究史
/ポップカルチャーは1980年代以降、研究の俎上に積極的に上げられ、1990年代以降には批評や研究が盛んになるものの、特撮は衰退期に入っており、アニメやマンガに比べ、研究が盛んになるものではなかった 。とはいえ、特撮の批評や研究はそれなりの数が存在する。しかしそれらの多くは『ゴジラ』シリーズや、その初期作品で特殊撮影を監督した円谷英二に関わるものであるなど、特撮を論じる上で代名詞として機能しているトピックスを扱うものである。また、「ゴジラは戦没者の比喩」といった視座も繰り返し提示される典型的な解釈である。こうした、いくつかの定型的なトピックスが存在することで、特撮をめぐる議論がそこに集中し、あたかもそれらについて論じることが、特撮を論じることと同一視される向きがあると言って良い。
→詳細は博士論文「1-2-1 『ゴジラ』シリーズをめぐる先行研究の状況と問題」、「1-2-2 川本三郎の『ゴジラ』論―怪獣を政治的に語る言説の誕生」参照
脱「表象論」と、特撮の「作者」論
/特撮に関する研究は、『ゴジラ』シリーズに焦点を当てた研究、それも川本三郎以降の、テクスト論的な表象分析が大きな比重を占めてきた。この状況に疑問を呈している真鍋公希で、真鍋は技術論としての特撮研究を進める中で円谷英二が早くから、特撮の「作者」として一般に認知されるに至った経緯を示している。小説やマンガと異なり、特撮の場合、作者を明示することは難しい。『ゴジラ』の場合、製作総指揮は森岩雄、制作は田中友幸、原作者は香山滋、脚本は村田武雄と本多猪四郎、監督は本多と円谷であり、このうちの誰が中心的な作者であるのか、明示することは難しい。通常の映画であればひとまず、監督が作者としてみなされることが多いが、特撮の場合、監督だけでも、ドラマ部分を担う本編監督と、特撮シーンを担う特技監督がいる。この点を踏まえ、特撮に携わった人物がどのように「作者」として認識されるに至ったかを明らかにする。
→詳細は博士論文「1-2-3 表象論に拠らない特撮研究から得られる視座―真鍋公希による「特撮の作者」論」参照
『ウルトラマン』シリーズの政治的批評の妥当性を考える
/1967年には、花田清輝による「最近のウルトラマンを見ると、いつも日本の都会の危機を救いに出現するウルトラマンという存在で、アメリカの核のカサの下にある日本を象徴しているかのようだ」という同時代評が存在した。
1990年代には佐藤健志が、初期『ウルトラマン』シリーズのメインライターである金城哲夫について、「琉球ナショナリズムとでも言うべき『沖縄人』」であると同時に「博愛主義的な国際主義」者であり 、その矛盾を解決しようとして「沖縄と本土を結ぶ架け橋」になろうとしたこと、そして「日本がウルトラマンのような寛大かつ鷹揚な態度で沖縄を庇護してくれれば、沖縄もまた積極的にナショナリズムを主張することなく、自立できる」という切望を金城が抱いていたという推論を展開する。また『ウルトラマン』が人気を博した理由を「実のところ理由は簡単である。沖縄と日本にたいする金城の願望は、アメリカと日本との関係にたいする当時の多くの日本人の願望とみごとに相似形をなしていたのだ。つまりウルトラマンという媒体を通じて、金城はそれと気づかぬままに、本土の視聴者たちと同床異夢を見たのである。」とし 、(佐藤の捉える)『ウルトラマン』シリーズの図式における「沖縄」を「日本」に、また同様に「日本」を「アメリカ」に置き換えるような関係を1960年代の日本人は望んでいたことで、その相似形であった『ウルトラマン』は人気を博したのだと分析する。
このような政治的言説は90年代にはテレビ情報誌の『ウルトラマン』シリーズ特集の中で「ウルトラマン安保30年闘争!」、「ウルトラマンとは何か 安保である」といった言説を生み出し、その後も、大澤真幸や、与那覇潤らによって再生産される。そして近年では2019年に、アニメ作品『ULTRAMAN』の特徴を、無力な自分たちの防衛力に代わり、米軍の比喩としてのウルトラマンたちが存在した従来の作品と異なり、今度のウルトラマンが等身大である理由を「中国や北朝鮮の軍事力が台頭し、米国のプレゼンスが後退しつつある現代の東アジアを反映するようにも見える。米国=巨大なウルトラマンに頼れない今、日本自身が小さなウルトラマンになって自らを守るしかない、というわけだ。」と分析するような論(『朝日新聞』)、あるいは2022年の『シン・ウルトラマン』を「シン・ウルトラマンと日米安保 ウルトラマンは米軍、怪獣は核兵器の暗喩なのか?」(『文春オンライン』)と銘打って分析するような連続性を保つに至った。同シリーズに日米関係を重ねる発想は古くは実相寺昭雄も示しており、一定の妥当性はある。しかし、「『ウルトラマン』シリーズと言えば日米安保の暗喩」とする論が一つのステレオタイプを形成し、あたかも同論が本質を突いた評であるかのように認識してしまうことで、見逃してしまう点が多々あることこそ、知っておかなくてはならないことだろう。元来、『ウルトラマン』シリーズは他の多くのテレビ特撮同様、児童への訴求を主とした作品である。そこに政治性が内包されているという意外性が「大人の鑑賞に堪える」といった、これもまたステレオタイプ化した評を幾度も生むことになるが、そこでは「大人の鑑賞に堪えない=政治性が感じられない」作品の等閑視にもつながりかねず、結果、作品の本質を見失うことになりかねないからだ。
→詳細は博士論文加筆「1-3-1 大江健三郎と佐藤健志の論」、「1-3-2 佐藤健志の論の妥当性の検証」参照
以後、随時追加(2024年~2025年 公開予定)