ウルトラマンシリーズ、特撮文化の研究と批評/A Study of Tokusatsu"live action films" Culture by KAMIYA Kazuhiro


堀野正人・谷島貫太・松本健太郎編著『都市と文化のメディア論 情報化するコンテンツ/ツーリズム/トランスナショナルコミュニケーション』、ナカニシヤ出版、2024年



 中学生の頃、深夜のラジオに夢中になっている友達に対し、睡眠不足を心配した学校の先生は、録音して早い時間に聞くことを勧めた。それを聞いたうちの母は「深夜に聞くから良い、ということなんだろうけどね」と言っており、ラジオに全く興味がなかった僕は、そんなものかと思って聞いていた。
 「ケータイ小説」が流行った2000年代、「ケータイ小説はケータイ画面で読むのと、書籍化されたものを読むのとでは別物/同じ」という両論が静かに衝突していた。僕の考えは前者だ。もちろん、書かれているテクストは変わらない。だがそのテクストを、小さな液晶画面で読むか、印刷された紙を手にして読むかで、その両者間に内容の相違はなくとも、環境の相違は間違いなく存在する。

 このような問題はメディア論を考える上で無視できない。ある作品を映画で見るのか、テレビで見るのか、テレビだったとして、本放送なのか再放送なのか、あるいはテレビモニターには映るが、それは放送ではなく、レンタルDVDや動画配信なのか。先の深夜のラジオだって、ライブ感覚の有無は言うに及ばず、中学生が本来寝ているべき時間に、密かに聞いているというささやかな背徳感、また同時間帯に少なくない同世代の人たちが同じような意識でラジオに耳を傾けているというシンパシーを共有しているという感覚があるからこそ、独自性を保てている可能性だってある。
 つまり、メディア、コンテンツといったものを語るときには、作者の意識を読むべきだとか、あるいはテクスト論的に作品を独立したものとして読むべきだとか、その結果、どのような時代性の反映が見て取れたのか―ある作品は戦後空間を、ポストモダンを、80年代を…―映しているといった議論に加え、その作品がいつ、どこで、どのように視聴者に届けられたのかを考えることが重要だろう。

 『都市と文化のメディア論 情報化するコンテンツ/ツーリズム/トランスナショナルコミュニケーション』が示すのは、一つにはそのような論点だ。
 永田大輔はマンガ文化とアニメ文化のズレの拡大という興味深い論点から、アニメの視聴環境の変化がアニメの内容の変化と関わり合うことを述べている。かつて、児童がテレビで本放送であれ、再放送であれ、一回的に見るものであったアニメは、大人の視聴者を想定し出したり、レンタルビデオ、セルビデオが普及することで、あるいは深夜アニメが成立する中で、アニメファンを取り込む市場が生じ、視聴率以上に関連商品の売り上げを重視され、そこでは1~2クールで完結する短いアニメが多く作られるというビジネスモデルが成立することを永田は示している。
 また、伊豆原潤星は「広告小説の可能性」として、1990年~1992年に電車の中づり広告に連載された小説について述べている。これは、電車が、他者と同居しながらも、そこで交流の生じない「黙読」「黙独」の空間を成すという特性を前提化して成立したコンテンツであり、その意味で、冒頭に上げた深夜のラジオ番組について考えるのと同様、どこでそのコンテンツを受容しているのか、という点を考える必要が出てくる。
 あるいは芥川龍之介の『蜜柑』のように、小説の「舞台」としての電車、松本清張の小説のように、移動の「手段」としての電車、といった文学的な論点の延長線上に、読者の生じる空間としての電車という論点を提示しているのだともいえる。
 他にも、「ゲーム」、「雑誌」、そして「観光」…といったきわめて興味深い観点から、メディアにとって都市とは何であるのか、都市にとってメディアとは何であるのか、といった問題が示されている。(2024/11/3)

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