ウルトラマンシリーズ、特撮文化の研究と批評/A Study of Tokusatsu"live action films" Culture by KAMIYA Kazuhiro


太陽の塔に代わるモニュマンとしての2025万博のガンダム―

ポップカルチャーのパブリックアート性と共通体験

2026/2/23

パブリックアートとしての特撮

 ポップカルチャーはパブリックアートである。
 ポップカルチャーびいきのあまり、このジャンルを芸術という高尚な域に引き上げようというのではない。ポップカルチャーは芸術的要素を内包しながら、公共空間のなかで自然に共有されてきた。
  たとえば『ウルトラマン』シリーズを考えてみよう。美術面では今日、シュルレアリスムの美術展に展示されるほど前衛的であると同時に、縄文の美術展に置かれるほどプリミティブな芸術でもある。音楽もまた高い評価を得、さらに撮影には実験映画に通じる手法が用いられる。よりアクチュアルな現代日本を描出している点のみならず、美術、撮影の面においてもアヴァンギャルド的といえる。しかし決定的なのはそこではない。

芸術と「認識されなかった」芸術

 『ウルトラマン』は美術館で鑑賞される芸術ではない。テレビで放送され、子どもたちが毎週自然に視聴する番組だった。芸術として受容されることはそうなかったであろう。 高度な芸術性を内包しながら、それが公共の電波を通じて、ほぼ無償で広く共有された。この構造をもつ点で、『ウルトラマン』は芸術なのだといえる。
 特撮作品内に時代劇の立ち振る舞いを継ぐ様式美を備え、同時に、玩具化を前提としたプロダクトデザインで構築されたメカニックが描かれる東映特撮もまた芸術の領域にある。
  大衆、それも多くの子どもに訴求したアニメや特撮、ゲームのキャラクターやメカニックのデザインや造形、音楽、あるいはゲームであればそのゲームシステムや操作感という体感部分も含めて、これらはパブリックアートといえる。 これらのジャンルが文化、芸術と見なされるには時間を要したが、そのような認識を得る前から既に、公共空間のなかに設置された芸術だった。

共通体験という公共性
 公共性は、芸術的価値の内包や発露によるばかりではない。 ポップカルチャーは、人々に共通体験を与える。『ウルトラマン』のリアタイ世代はしばしば最終回でのウルトラマン敗北の衝撃を語るし、『ドラゴンクエスト』に興じた世代は、風のマントのありかを教え合い、ゾーマをレベルいくつで倒したかを競い合った。
 この世代的経験はやがて、世代共通の記憶となる。またこれらの経験はファン文化にも昇華していく。 ここで言うファン文化とは、コアなファンの活動だけを意味しない。むしろ「特別に詳しくはないが、もちろん知っている」という緩やかな共有状態こそが重要である。 多くの人が、同じ映像や音楽、キャラクターを経験しているというその共有こそが、公共性であるからだ。

万博のガンダムというモニュメント
 2025年の大阪万博では、巨大なガンダム像を擁するバンダイナムコのパビリオンが建てられた。 このパビリオンは三重の意味で公共性を有している。
 第一に、このパビリオンはスペースデブリという地球規模の課題を、エンターテインメントを通じて啓蒙した点である。
 第二に、ガンダムは「ポップカルチャー大国日本」のモニュメントであるかのように機能した点である。
 第三に、ガンダムのモニュメント化は、アニメや特撮が日本文化の一角を担うに至った歴史そのものを表象している。かつて周縁的と見なされたアニメや特撮というジャンルが、文化の中心へと移行した。このパラダイムシフトが生んだ影響は、思想的にも経済的にも計り知れないだろう。そのような大きなうねりを生み出した点でポップカルチャーは公共的なのであり、ガンダム像はそのような文化史を固定化、形象化していると言ってよい。

ポップカルチャーの公共性とその可能性
 ポップカルチャーは優れたエンターテイメントである。そして高度な芸術性を内包し公共媒体を通じて共有され、世代横断的な共通体験を形成し、国や文化の象徴となり得る。その意味で高い公共性をもつ。空気のように自然に触れるパブリックアートとしての公共性、そして共通体験を与えるという点での公共性について触れてきた。
 今後もポップカルチャーが創出する公共性は、ガンダムを通した宇宙環境問題の提示のように、優れたエンターテイメントであることを前提としながら、より良い未来を構想する提案や問題提起を拡散していく可能性を秘めている。
 しかし一方で、ポップカルチャーはこれまでも暴力やアイロニーを通じて、時代ごとの〈正しさ〉を幾度も問い直してきた。眼前で執行される正義は本当に正義なのか。私たちが最適解と見なしている解答にアナザーは存在しないのか。
 もし公共性を帯びることによってポップカルチャーの批判性が鈍化するならば、それは成熟ではない。むしろその機能不全である。公共性とは、安定を保証する装置ではなく、問いを持続させる場でなければならない。

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