
「音楽」や「芸術」は「ある」ものではなく「なる」ものである
渡辺裕が、教会でのミサや、バナナの叩き売り口上が音楽文化として認識されたという音楽史を語る中で、文化資源について語っているのが上の言葉である。
教会でのミサやバナナの叩き売り口上は元来、音楽、芸術としての成立を目指したものではなく、さらには同時代に生きるそれらの消費者もまた芸術として認識していたとは言い難い。これらを音楽、芸術と見なすことが「資源化」である。ミサはミサであると同時に、そして、叩き売り口上は口上であると同時に、芸術的な文化資源となった。つまり、芸術は最初から芸術として存在するのではなく、芸術的なものとしてのまなざしを受けることで芸術になるのである。ミサとバナナの叩き売り口上といったコンテンツが文化資源として記号化される中では、そこには従来的に内在されるであろう「上位/下位」という相対化、差別化されたイメージが稀薄化していく点にも着目したい。
このことは、例えば「B級グルメ」等についても同じことが言えるだろう。従来、当地の住民にとって馴染み深くても、地域を代表する食文化と見なされるに至らなかった数々の料理や食品が、「B級グルメ」等と銘打たれることで、「B級」つまり、一流と目される食文化からは相対的に劣位に置かれるかもしれないものの、他の観光資源に並ぶような食文化となる可能性を得た。
ポップカルチャーもまた、伊福部昭の音楽や実相寺昭雄の映像美を中心に芸術として扱われ、今ではポップカルチャー概念以降のアニメコンテンツをアニソンとして評するのみならず、遡及的に音楽なら冬木透、渡辺宙明、美術なら成田亨といった大家をはじめ、多くのクリエイターの作品が文化資源と見なされるようになった。さらには特撮の舞台美術やミニチュアなども、中間制作物として文化資源化している。だが、それらの多くが同時代に評価を得ず、後年、遡及的に見直されていることを考えたとき、「『音楽』や『芸術』は『ある』ものではなく『なる』ものである」という渡辺の指摘は、ポップカルチャーにも該当する汎用的なものであることに気付くのみならず、今見逃しているある事象、事物が将来的に文化資源化する可能性があることまで、読者に想像させる。(2024/9/22)