
1970年代から見る1980年代-嘲笑の時代
第2章「家族とテレビドラマの一九七〇年代――「ホームドラマ」から「反ホームドラマ」への転換とその背景」や、第7章「テレビが媒介するナショナルな時空間の編成――NHK『新日本紀行』を中心に」(ともに米倉律)は、『テレビ越しの東京史』に通じる議論であり、また第4章「大島渚と蓮實重彦――反時代・フランス・マゾヒズム」(日高勝之)も興味深い。
中でも関心を引いたのは
第1章「『からかい』から見る女性運動と社会運動、若者文化の七〇年代―雑誌『ビックリハウス』におけるウーマン・リブ/フェミニズム言説を通じて」(富永京子)
である。
富永は「一九八〇年代の『からかい』は若者文化が消費社会に適合した結果であり、シニシズムの現れ」であること 、また1980年代は「正義」や「良識」の押し付けが従来以上に忌避された時代であることを指摘する 。
1980年代はワイドショーによる問題の発覚等から、「やらせ」の語と概念が人口に膾炙した時期であった。テレビには種も仕掛けもあるという当たり前のことを視聴者が理解、あるいはその点に過敏に反応し出した。テレビ制作という裏領域が表面にせり出す業界ドラマも流行した。やがてドラマをフィクションとして視聴するのみならず、真面目な演出、シリアスなドラマであるが故のおかしさを探し出し、それを笑い飛ばすというメタ的な視聴がメディア主導で行われることがよくあった。偶然に偶然が重なるような―『赤い疑惑』に代表される―『赤い』シリーズのような、出生の秘密を抱える家族や、数奇な運命をたどる人間たちのドラマは好意的に受容される時代は過ぎ去っていた。
特撮もまた、大真面目におかしなことをするものとして嘲笑の対象と化した。それは格好の的と化したと言っても良い。『電人ザボーガー』のギミックが、変身時に高所に立つキカイダーが、また変身時に「脳神経が異常活動」を始める変身忍者嵐が笑い飛ばされた。これらは後に『バトルフィーバーJ』のバトルコサックが「強化服をクリーニングに出した故に変身できず死亡したという」深刻なデマが発信/受容される前史となった。
1980年代については既に、原宏之がその高著『バブル文化論〈ポスト戦後〉としての一九八〇年代』で「軽佻浮薄」の時代であることを分析的に論じたが、富永の示す、若者文化の「からかい」の態度、シニシズム概念もまた、80年代の特撮不遇を説くキー概念と言える。(2024/9/22)