ウルトラマンシリーズ、特撮文化の研究と批評/A Study of Tokusatsu"live action films" Culture by KAMIYA Kazuhiro


田中純『政治の美学 権力と表象』、東京大学出版会、2008年



 不勉強という域からは辛うじて脱し、大学生としてはそれなりに研究に打ち込んだ僕だったが、研究対象ばかりをかき集めてきても、研究方法をどうするかという発想さえ持ち得なかったことは視野狭窄だったとしか言いようがない。20代半ばで、何冊かの本を読み、ようやく大学時代に指導教員に、デカルトの『方法序説』を勧められた意図も理解できるようになった。そして「構造主義」「二項対立」「テクスト論」等々の、思想や方法というものを知り、その中で飛びつくように共感したのが表象論であった。やがて「『ウルトラマン〇〇』の第〇話は社会の○○を描いている」といった評論を書くことになる自分の構想と方向性を同一にするもので、今考えると、持論の後ろ盾を見出したように感じていたように思う。多くの論者が映像、マンガ、文学や音楽…から社会的背景、時代性というものを考察しており、『ウルトラマン』シリーズあるいは怪獣映画を中心にそれを成すことを「怪獣表象論」と銘打った。ただ、表象論とは「〇〇は△△を表象している」といった議論、つまりは「比喩」と言い換えられるような議論に終始して良いのだろうか、という思いは常々あった。

 北大の博士後期課程に入った2017年、『北海道新聞』読書特集の「今年の3冊」で吉田徹が『代表の概念』(ハンナ・ピトキン)を選んでおり、本書の存在を知った。本書「補遺 語源について」では「表象=representation」の原義に触れられている。
 ラテン語の「repraesentare」は存在させたり、明らかにしたり、再び見せる、という意味で使われたが、「古典ラテン語では、まったくと言っていいほど無生物にしか用いられていない。それは無生物を文字通り存在させること、誰かの眼前に持ち出すことを意味しうる」こと、「抽象概念を、物体を通じて、また物体の中に現れさせる、ということも意味しうる」のだという。つまり、表象とは、不可視の観念の可視化でありミーメーシス(再現・模倣)であるといって良い。
 自分の中でこの問題を掘り下げていった時に出会うことになったのが『政治の美学』であった。田中独自の論も興味深く展開されるが、その過程で引用される先行論も見逃せない。
 同書ではホッブズ『リヴァイアサン』論が扱われる。哲学者のホッブズは国家権力を聖書に出てくる強大な怪物に喩えているのであった。これについて田中は、ホッブスは機械にも神話的意味を見出していたことを指摘するカール・シュミット、この怪物に葬儀用肖像(権力者の身体の代替となる)との類似を指摘し「権力空位の時間を補償」すること、またこの怪物は「国家成立の瞬間の継続化」であり「瞬間の永久的な反復の表現」であるとしたホルスト・ブレーデカンプらの論を紹介する。その第1作から、2013年公開の『ゴジラ-1.0』に至るまで、繰り返し「戦争」「核」といった事柄と結び付けて描かれるゴジラは「永久的な反復の表現」と言えるだろう。
 中でも注目したいのは、表象は「(過剰補償された)強調」を伴い、非現実性の感覚をともなっているという点である。「『過剰補償』された強調というかたちで可視化された不可視の存在は、いわば実在性が強められすぎてしまったために、その過剰さによって逆に非現実性を帯びてしまう。」という指摘は、過剰な異境装飾によって「都会」「文明」とのコントラストを顕現させた『キング・コング』はもとより、1950~1960年代の草創期の日本のテレビ特撮のことを想起させる。そこでは、ステレオタイプな「南洋」「中東」「東南アジア」のイメージで舞台や敵を描き、対照的にそのようなエキセントリックなイメージを脱した日本のヒーローが活躍するというドラマツルギーが存在していた。それは明治以来の「脱亜入欧」という意識の高揚を表していた。過剰に強調された異境の非現実性は、怪獣や怪人が跋扈し、怪事件が頻出する場として相応しいものであった。

 もっとも、『代表の概念』もそうだが、『政治の美学』は大別すれば政治学の研究であり、表象の原理をいかに的確に捉えているにせよ、そのまま人文・社会の研究に引用できるかどうかは一考の余地がある。映像コンテンツの表象論を説くには、それが「商品」である以上、消費のために生産されたものであるという基本原理を見失ってはならないからだ。それでも、「観念的=不可視のものを異形により表象」した『リヴァイアサン』を扱った同書は、表象論を考える上で示唆に富んでいるといえる。(2024/11/3)

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