ウルトラマンシリーズ、特撮文化の研究と批評/A Study of Tokusatsu"live action films" Culture by KAMIYA Kazuhiro


3『ウルトラマン』シリーズの文化史と表象論Ⅰ-特撮草創期から二度の怪獣ブームまで―SF、教育、科学ドキュメンタリー、青春、少年、ホームドラマ…として―(後編)



 変身ブームともいわれる第2次怪獣ブーム。それを牽引した『ウルトラマン』第2期シリーズでは、怪獣撃退、危機の回避という出来事は、反復される記号的な出来事となる。そして怪獣撃退でドラマが終わることはほとんどなく、少年少女の成長、若者の秩序化、家族関係の快復といった小さな物語が集積され、結果、同時代の大衆を俯瞰的に描くこととなった。

1971年―変身ブーム、第2次怪獣ブームのはじまり

/1971年から1974年までの足掛け4年間は特撮が最隆盛期を迎えた時期である。『ウルトラマン』シリーズと『仮面ライダー』シリーズ以外にも多くの作品が放映され、ピークとなる1973年には25本ものテレビ特撮が放映されている 。この時期のブームは、仮面ライダーの変身シーンでの「変身」の掛け声になぞらえて、「変身ブーム」とも呼ばれることになる。

「作品発表の場を、印刷媒体から電波媒体へ、雑誌からブラウン管へと変えた」と 自ら語る石森章太郎がマンガ版を担い、等身大のヒーローが怪人と戦う作品を量産する東映と、東宝の戦争映画をルーツにもち、アヴァンギャルドの思潮や、少年ドラマと相互干渉するような作品となった『ウルトラマン』シリーズを擁する円谷プロの二社が特撮の最盛期を支えることとなった。そしてこの二社の特撮は、今日に続く、大きな二つの作風を生み出していった。

→詳細は博士論文「3-4-1 1971年―変身ブーム、第2次怪獣ブーム」参照

ポストモダン化する日本と『ウルトラマン』シリーズ

/この時期の作品の大部分では、都市の抱える様々な状況が怪獣出現の、あるいは怪獣出現という出来事によって照射される市井の人々が抱える問題を生み出す背景となってドラマが成立していた。1970年代、多くの建築家が抱いていた「ユートピア的な都市計画は激減した」と五十嵐太郎は指摘するが、都市が快適な暮らしを提供する夢の空間ではなくなっていく様は『ウルトラマン』シリーズの中で繰り返し描かれていた。そして、高度に都市化を果たしつつ、ヘドロやゴミ、工場の煤煙にまみれるような東京の風景は、青少年の生き方に影響を与えるものとして、テレビドキュメンタリーの題材に頻繁になっていた。

→詳細は博士論文「3-4-2 ポストモダン化する日本と『ウルトラマン』シリーズ」参照

ボクシングによる若者表象

/『太陽の季節』等の青春映画でよく描かれるボクシングは青年の衝動を表象するものであった。瀬崎圭二は、腕の往復運動で肉体がぶつかり合うという意味でボクシングをセックスの暗喩とする。 ひいてはボクシングは若者の衝動性を表象しているといえるだろう。若者の衝動の表象としてのボクシングをめぐるエピソードとしてよく知られているのは、よど号をハイジャックした連合赤軍の声明である。ハイジャックの実行前に彼らが新聞社へ送りつけた「我々は明日のジョーである」という声明は、拳一つで苦境の中で戦う闘志としての矢吹ジョー(劇画『あしたのジョー』の主人公でボクサー)に、自らの手で革命を起こしたいと願う自らの姿を投影したものであっただろう。ボクシングを描く『あしたのジョー』(マンガ=1968年~1973年、アニメ=1970年~1971年)が若者に支持されたのは、それが若者たちによる既成権力への怒り、つまり権威に対する挑戦として見立てられたからであった。

この時期、若者としての自分の衝動を短歌に詠みこんだ歌人に佐佐木幸綱がいる。佐佐木は安保闘争を意識したという歌集『群黎』を1970年に上梓する 。そこには安保闘争で国会に突入し、警察と激突する中で死んだ樺美智子や、自身と同じく安保闘争に心血を注ぐ中で自死した岸上大作への挽歌のほか 、「ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ」、「サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん」、「奴は女くったくのない瞳さえ俺の裸身の汗に裂かれき」と、一見、短歌の世界と不釣り合いなラグビーやボクシング、あるいは性衝動を詠みこんだ。

『帰ってきたウルトラマン』第27話「この一発で地獄へ行け!」はキックボクシングを通して若者の群像を描くものであった。このドラマでは実在のキックボクサーである沢村忠が本人役でゲスト出演したこともあって、怪獣をめぐる物語以上に、大志を抱く若者の姿がキックボクシングを通して中心的に描かれる。華々しくスポーツで名を上げることと、恋の成就を願う東、肉体鍛錬を通して、熱く夢を語る東とそれを聞いて応援する郷、そして夢破れて帰郷を決意する東は、郷里を離れて都会で大志を果たそうとする若者と、その甘くない結末をキックボクシングを通した青春群像として表現するものであった。このような、ボクシングや肉体鍛錬によって自己実現を図る若者たちの青春群像が『ウルトラマンタロウ』や『ウルトラマンレオ』ではより前面に押し出される。

→詳細は博士論文「3-4-8 ボクシングによる若者表象」参照

若者文化としてのディスカバー・ジャパン批判

/若者の衝動性を、若者文化に対する批判性からとらえたドラマも存在した。『ウルトラマンA』第16話「夏の怪奇シリーズ 怪談・牛神男」では、ヒッピー風の若者の軽薄さを批判的に捉えるとともに、かつての実相寺昭雄同様、ディスカバー・ジャパンそのものに加え、それに触発された観光客への批判性が、岡山県の牛窓地方を舞台とした紀行的なシーンの中で、きわめて顕著に描かれる。

興味深いのは、観光への批判的なまなざしが注がれる点である。このドラマでは牛の怨念によって若者が牛に祟られるかのようにして、身を超獣(=怪獣)に変えられる。そこで牛の祟りを鎮めるべく蓄霊供養が行われる。そこでは祭礼者が炎を前にし、ほら貝等の祭器を用い、経文を唱えるシーンと、供養を物珍し気に眺め、笑いを浮かべてカメラを向ける若い女性の観光客たちとのシーンが交互に映し出される。本作から見とれるのは、ヒッピーのような生き方をする若者への批判のみではなく、地域土着の祭儀がフォトジェニックな観光資源として消費されているということへの批判的なまなざしであった。本作はそのためにわざわざ地元の祭礼者を動員し、このドラマのために祭礼を創作しているのである。祭儀にカメラを向ける若い観光客も、女性の二人組であった。これら、ディスカバー・ジャパンとそこから派生した、アンノン族への批判的なまなざしがこのドラマには盛り込まれている。

→詳細は博士論文加筆「3-4-9 若者文化としてのディスカバー・ジャパン批判」参照

「現代っ子」描写とジュブナイル性

/ 『ウルトラマンタロウ』第21話「東京ニュータウン沈没」は冒頭、東光太郎と健一が二人でセミ捕りに来たところからドラマは始まる。 

 健一「ねえ、光太郎さん、どこにセミがいるっていうのさ。」
 東「困っちゃったなあ。僕が子どもの頃はこの辺一帯が武蔵野の林が延々とあったんだ。それで夏になると毎日セミを捕りにきていたんだけどな。」

 東の幼少時とは打って変わって人工的な建造物が林立し、なおかつ今も絶えず開発が進んでいること、そのことで子どもたちがコンクリートに囲まれて過ごしていることが描かれる。そして「クラス一の昆虫博士」と言われるショウイチ(健一の同級生)さえ、昆虫はスーパーで買うものと言い切る。

 このエピソードの最後では、東が健一とショウイチを天然の虫が生息する林に連れていき、そこで子どもたちと東が自然に生息するセミの鳴き声に包まれる。そこには、序盤に加え、このシーンの直前でも執拗なほど描かれた、子どもたちを取り巻く反自然としての団地や、開発のための作業車とコントラストを成す自然の中で子どもたちが過ごすことが望ましいという態度が示されている。

 このような、近代的な開発の論理の元で、子どもたちの過ごす環境が変化していくことへの疑念は、この時期、幾つものエピソードで見られるものだった。

→詳細は博士論文「3-4-10 「現代っ子」描写とジュブナイル性」参照

少年の成長ドラマとしての第2期『ウルトラマン』シリーズー第1期シリーズとのドラマツルギーの違い

/子どもを多く描くようになる中で、第2期『ウルトラマン』シリーズはおとぎ話のようなドラマへと変化していった。『桃太郎』、『浦島太郎』のように、おとぎ話の主人公の名であるタロウという名を背負った『ウルトラマンタロウ』はその傾向が最も強い作品となった。第20話では宇宙を飛行していた怪獣が、打ち上げ花火に巻き込まれ、第31話では防衛隊が開発した、植物と会話できる機械によって少年が辺りの木々と会話を交わすなど、かつて特撮が(空想)科学としての妥当性を求められていた頃には考えられないような、現代のお伽話とでも言えるようなドラマが展開された。そこでは怪獣も脅威、憎悪の対象ではなく、ときにコメディリリーフとして存在し、ウルトラマンタロウが怪獣を倒さないドラマが、全53話中13本存在する。これは第2期シリーズの1作目である『帰ってきたウルトラマン』の全51話中3本に比べると格段に多い。
 そのような中でも、子どもを取り巻く現実や、子どもの実態を描こうとする性質は持続していた。親の不在とそのような状況で悩みながらも強く生きることに目覚める少年の成長譚は数多く描かれ、また、子どもの軟弱さとそれを問題視する大人が描かれる(第29話)。
 『ウルトラマンレオ』では肉親の喪失が一層、冷酷に描かれる。そして、同作の最後の敵にして第2期シリーズの最後の敵、ブラック指令を少年少女の勇気と結束で破るというラストは、大衆、中でも青少年を多く描いてきた第2期『ウルトラマン』シリーズが、最終的には少年ドラマとして終焉したことを示すものであった。多くの視聴者と同年代の少年少女が悪の総領を破るというラストは、ゴジラやゼットンが人間の叡智の象徴としての科学技術によって葬られたのと対照的である。

 第1期シリーズではSF性が保たれ、怪獣出現の怪奇を暴き、怪獣を退けることでの危機からの回復がドラマのカタルシスとして設定されていた。そこで描かれるものは異境開拓の武勲や科学力の勝利、明るい未来の予感といった、近代化を目指す日本にとっての〈大きな物語〉といえるような目標の達成であった。少年が描かれるにせよ、そこには戦前来の少年活劇の主役たちのように、多くは曇りのない健全な笑顔を見せる活劇的なドラマが多く展開されたのが第1期シリーズであった。しかし第2期シリーズではSF性は怪獣や宇宙人が存在するという前提的な枠組みとして機能するほかは徐々に後景化する。そして、人間的な弱さに直面した少年や若者、家族たちの(多くは)ハッピーエンドを描くことへと変容していった。このようなことから、第2期シリーズは第1期シリーズに比べ、キャラクターも、そしてドラマ自体も矮小化しているものにも見えたかもしれない。『ウルトラマン』シリーズが評価を得始めてもしばらく、その人気が第1期シリーズに留まっていた背景には、そのようなドラマツルギーの変容があったのではないか。しかしこのドラマツルギーの変化こそが、シリーズに幅を持たせるものでもあった。スポ根もの、ホームドラマ、児童文学、少年ドラマといった同時代に好意的に受け入れられたコンテンツとも共振することで、第1期シリーズとは大いに趣向を変えつつも、第2次怪獣ブームの中核を成すシリーズであり続けた。
 『ウルトラマンレオ』をもって、同シリーズは休止期間に入るが、この休止期間に「ウルトラ兄弟」「ウルトラファミリー」といった第2期シリーズ人気の延長線上にある露出を続けることで、『ウルトラマン』シリーズは新作がなくとも、特撮の代表格たりえ、さらには雑誌や玩具展開、そして絶えない再放送によって新たな視聴者を獲得していくのである。

→詳細は博士論文「3-4-11 おとぎ話、少年ドラマとしての『ウルトラマンタロウ』」、「3-4-12 肉親との情愛と喪失」、「3-4-13 第2期『ウルトラマン』シリーズの終着点―少年ドラマとして―」、「3-4-14 第2期『ウルトラマン』シリーズのドラマツルギーの変容と、以後への影響」「6-1-2 第2期シリーズ―SF的な枠組みの中での少年ドラマ化」参照

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