ウルトラマンシリーズ、特撮文化の研究と批評/A Study of Tokusatsu"live action films" Culture by KAMIYA Kazuhiro


2 特撮、そして『ウルトラマン』シリーズに継承された文化―異形、視覚文化、アヴァンギャルド、アンダーグラウンドを中心にー



 特撮、あるいは『ウルトラマン』シリーズに継承された、特撮以前の文化について四つの観点から考究する。

 一つ目は、怪獣の原点としての異形の表象性、あるいはコンテンツ化した異形の生産/消費の状況についてである。国文学を中心に、海外の文学、建築にも目を向ける。

 二つ目は、草創期の特撮に見られる異境を俯瞰する性質についてである。その源流を、万国博覧会に付帯する西洋近代の視覚文化―塔、パノラマ、観光等々―に探る。

 三つ目は、『ウルトラマン』シリーズに現れた、ドキュメンタリー性や、実験映画的描出について、戦後日本のアヴァンギャルドの思潮からの影響を探るものである。戦後、花田清輝や岡本太郎らが牽引したアヴァンギャルドの思潮が、映像の世界では大島渚らのドキュメンタリー映画によって具現化したが、近い位置にいた脚本家の佐々木守、監督の実相寺昭雄がその思潮や映像表現を『ウルトラマン』シリーズに取り入れたことを明らかにする。またここでは、フランスの映画思潮であるヌーヴェルヴァーグからの影響も探る。

 四つ目は、アングラ文化=サブカルチャー的な要素が特撮、あるいは『ウルトラマン』シリーズに与えた影響についてである。なお、この問題を語る上では、サブカルチャーとポップカルチャーの弁別が必要であり、その点も言及する。

怪獣の起源と文化人類学的な意味

/小松和彦は、「私はゴジラが、日本の伝統的な妖怪と、その後怪獣映画という形で展開するような怪獣との、いわば結節点に位置する大変優れた作品だと考えている」、「日本の怪獣映画の初期の頃は、日本の伝統的な神話や伝説などをある程度下敷きにして怪獣を作り上げていた」と語る。汎世界的に見られる、架空の存在が描かれるフィクションには、戦後日本で開花する特撮に繋がる想像力が秘められているのではないか。ミルチャ・エリアーデは『聖と俗』の中で、「〈われらの世界〉はコスモス(宇宙)である。それゆえ、これをカオス(混沌)に変えようとする外からのあらゆる襲撃に脅かされる」、「コスモス(宇宙)が出現するためには、この龍が神によって征服され、ずたずたに切断されねばならなかった」とする。異形を排除することで、自らの秩序を保とうする神話は古くは『ギルガメシュ叙事詩』から続く。また尾形希和子によれば、整然とした状態(=秩序ある状態)を規範とし、それを体現するものとしてギリシア・ローマの古典美術があり、それよりも劣るとして異形や怪物を含む装飾があった。異形をめぐる想像力の源流は原初の時代の人間の文明圏にあったと言えるだろう。

→詳細は博士論文「2-2-1 怪獣の起源と文化人類学的な意味」参照

異形の性質―異形の発生、姿形から探る『ウルトラマン』シリーズと『仮面ライダー』シリーズの根源的な差異

/『古事記』のヤマタノオロチのような強大な異形は、大衆に降りかかる災厄として機能することから、例えば台風のような自然災害の比喩ではないかなどと分析されている。一方で、『源氏物語』に出てくる物の怪は、あくまで個に降り注ぐ災厄であり、当事者以外は物の怪の存在そのものさえ、認識していないかのようである。これは巨大な怪獣が描かれる怪獣映画や『ウルトラマン』シリーズと、等身大の怪人が描かれる『仮面ライダー』シリーズとの差異にそのまま重なる。怪獣は大衆に対しての災いであるからこそ、首相が描かれ、自衛隊が描かれ、あるいは国際的な動向が描出される。対して、『仮面ライダー』等の怪人の躍動はまさに「暗躍」に近い面もあり、世の動向の描出は稀である。このことから『ウルトラマン』シリーズとは、公人たちのドラマであるともいえ、現実世界で公的なものの価値が失墜し始めるに伴い、組織の硬直に翻弄され、怪獣に寄る災厄と対峙する以前に、人間同士の軋轢と対峙せざるを得ないヒーロー像が描出されるようになる。

→詳細は博士論文「2-2-2 異形の性質―異形の発生、姿形から探る『ウルトラマン』シリーズと『仮面ライダー』シリーズの根源的な差異」、「3-4-3 ホームドラマとしての第2期『ウルトラマン』シリーズ」参照

舞台芸術、娯楽化する異形―能楽や江戸の妖怪文化と怪獣―

/異形は畏れの対象であると同時に、古くから舞台芸術、あるいは玩具として消費される対象であった。怨念を背負った女性の心中を表象する般若、鬼、蛇の化身といった異形を造形し、それらが舞台上で可視化される芸能として能楽があった。日本の特撮では、人間が着ぐるみを着るというスタイルを取っており、これはミニチュアをコマ撮りで撮影する、伝統的なアメリカの特撮映画の手法とは大きく異なる。異形の中に人間が入り、「異形を演じる」という点でも、能面をつけた人間が異形を「演じる」能楽は、怪獣映画につながる構造と精神を持つであろうことが、狂言師、野村萬斎の言葉からうかがえる。
『シン・ゴジラ』(2016年)では野村萬斎がゴジラのモーションキャプチャーを演じたが、オファーが来たことについて、「狂言や能の様式美というものを意識されたと思う。無機的な、人間臭いというより、神、幽霊、怪物のような侵しがたい存在感を期待されたと思う」、「ゴジラの面もつけまして、顎を動かす面の使い方を意識した」と話す 。人間の身体性と異形の表象性が結びつき、可視化、舞台化されるという伝統芸能の構造と精神が、着ぐるみの怪獣が虚構世界に現れる特撮に直接的に受け継がれていることがうかがえる。
 また江戸時代には妖怪がキャラクターとして再構築され、娯楽として消費された。このような異形の舞台芸術家、あるいは娯楽としての消費という歴史は、特撮が受け入れられ、また特撮が伝統芸能の延長線上に収められる前史として機能したと言えるだろう。

→詳細は博士論文「2-2-3 異形の性質と、その怪獣への継承」参照

怪獣の描かれる土壌としての科学小説の誕生―冒険小説、探偵小説等も射程に入れて―

/伝統的な異形の性質は、怪獣という新たな異形に継承されるものではあっても、異形が描かれる神話や物語、あるいは能楽が、直接的に『ゴジラ』のような怪獣映画を生むような土壌となったわけではない。
『ゴジラ』公開からしばらくの間、これらの特撮は空想科学の範疇に置かれた。空想科学は、江戸時代に既に存在した科学小説の系譜上に置かれるものである。科学小説は江戸末期にはすでに翻訳ものとして見られ、明治期に台頭を遂げる。

1900年には、『ゴジラ』シリーズの制作者によって1963年に映画化される科学小説『海底軍艦』が発表される。無人島で海底軍艦を完成させ、海賊船団を討伐するという『海底軍艦』は冒険小説とも呼ばれる作品であった。『海底軍艦』を書いた押川春浪は、雑誌『冒険世界』の主筆を務め、そこでは主に若年層に向けた科学小説が多く発表された。大正期には雑誌『冒険世界』を引き継ぐかたちで、『新青年』が発刊され 、そこには多くの怪奇小説、幻想文学、探偵小説がひしめくこととなった。また、西洋由来の人造人間(ロボット)の登場する小説が生み出されたのもこの時期で 、このころすでに、戦後開花するアニメや特撮の想像力の種は蒔かれていたといって良い。後に『ゴジラ』の原作を手がける香山滋がデビューしたのも、『新青年』の役割を継承した『宝石』であった。

→詳細は博士論文「2-2-4 怪獣の描かれる土壌としての科学小説の誕生」参照

雑誌『少年倶楽部』掲載の小説、草創期テレビ特撮の異境表象

/戦前以来の南進論の機運の高まりから、少年向け雑誌である『少年倶楽部』(講談社)では、戦前から『豹の眼』(高垣眸、1927年)、『亜細亜の曙』(山中峯太郎、1931年~1932年)、『吼える密林』(南洋一郎、1933年)といった異境としての南洋を舞台とした小説が多く掲載されていた。これらに共通するのは、勇猛な日本人が異境を舞台に活躍するという筋書きで、そこには、自らを中心とし、外部としての異境を劣位にあるものとしてまなざす想像力がある。この想像力は草創期のテレビ特撮に継承され、『月光仮面』では、600年前に栄えた東南アジアの一角として設定されて描かれるバラダイ王国が設定され、以降も『鉄腕アトム』では悪の組織として南海の孤島に秘密基地を持つZZZ団、『豹の眼』には清王朝の再興を目指す秘密結社「青竜党」が出てくる。『快傑ハリマオ』は、昭和初期にマレー半島で「ハリマオ」と呼ばれた実在の日本人をモデルとし、本作においてもジャワ、マレー半島から、タイ、香港、モンゴル等を舞台として、民衆を救う英雄ハリマオが描かれる。また本作では実際に香港、タイ、カンボジアでのロケを挙行している。これはわが国のテレビドラマにおける、初の海外ロケであった。

近代化の中で普遍的に見られるこのような想像力は、一つには博覧会や、そこから派生した視覚文化に結実したものであった。これらの博覧会は、西洋が世界にまなざしを向け、東洋や南洋を自分たちと隔たりのある「外部」としてとらえるものであったからである。

→詳細は博士論文「2-3-1 草創期テレビ特撮の異境表象」参照

俯瞰的表象性とは何か―特撮作品に受け継がれた視覚文化の俯瞰性

/視覚文化のもつ俯瞰性が『ゴジラ』に底流している点に注目したい。東京は夜になると大企業のネオンがきらめく復興、繁栄ぶりだが、辺境の地ではボロボロの服をまとい、前近代的な暮らしの中で、ゴジラを荒ぶる神として怖れる民衆が描かれる。このように都市部と地方では復興、繁栄の格差が大きいが、情報を司るマスメディアがその差異を均していく同時代の様子がおそらく無自覚のうちに作品には投影されている。またゴジラという巨大な非日常的存在が描かれることで、政府や防衛隊(自衛隊様の組織)、科学者等、日常的に存在していても顕在化しにくい存在が浮き彫りになっており、その意味で『ゴジラ』は社会を大局的に活写するドラマであった。そしてこの特徴的な構造は、同じく巨大な怪獣の描かれる特撮である『ウルトラマン』シリーズに受け継がれていく。

『ゴジラ』はなぜ、そのような構造をもちえたのか。それは擬似的な世界が再現される映画の中において、ゴジラという巨大なものを設定することで、人々や社会がゴジラに向けるまなざしが描かれているからだろう。つまりゴジラは社会の各所からまなざされる「焦点」であり、その意味で怪獣は共同体から見上げられる塔に近い。そもそも映画は、映画につながる視覚文化の一つであるパノラマ―画像によって、戦地や遠方の異境を疑似的に描く装置―がそうであったように、世界が擬似的に凝縮されて再現されている。また塔は俯瞰の装置であるが、同時に見上げられる両義的な存在である。映画を見る者は、ゴジラ襲来の対策を練る国会、ゴジラ撃滅を図る防衛隊、事実を報道するマスコミ等々の動きを見ることになる。視聴者の視点はゴジラの側にある。感情を持たないゴジラは、眼下を見下ろし何らかの意志を示すものではない。むしろゴジラの位置から社会を見下ろしているのは、本来、見下ろされる位置にあるはずの私たちである。ゴジラとは、見上げられるその巨体をもって、人々に社会を俯瞰させる両義的な塔にほかならない 。

整理すれば、巨大な異形の出現する特撮は、パノラマ様の擬似的社会の中に塔を描くことで、社会を俯瞰させる装置であるといえる 。パノラマの欠点は、そこに描かれる事物に本来付帯していたコンテクストが引き離されることにある。その点においてパノラマは博物館と同様の装置である。しかし塔は高所からの俯瞰によりコンテクストを明らかにする。さらに、ロラン・バルトが『エッフェル塔』において指摘したように、塔はその地の積層を思い起こさせるパリンプセストの機能を持つ 。『ゴジラ』では、地方と都市には復興や繁栄に大きな差があったということ、わずか10年前まで米英を倒すことを正義と信じていた日本人がそのことをなかったことにしているかのように、欧米的な豊かさを享受している様を描いており、その意味で東京のコンテクストや積層があらわになっている。

このように、怪獣が出現するという非日常的な虚構をもととして、社会を俯瞰的に表象する性質を俯瞰的表象性と呼ぶこととする。

→詳細は博士論文「2-3-3 『ゴジラ』以降の特撮作品に受け継がれた俯瞰性と、その仕組み」参照

テレビ特撮の俯瞰的表象性とその変容―異境から東京へのまなざしの変移―

/俯瞰的表象性は、テレビ特撮に引き継がれ、草創期のテレビ特撮で、南洋、アジア諸国、アフリカを異境として舞台化する。しかし、特撮はやがて異境の描出を稀薄化させていく。その汽水域となったのが『ウルトラQ』と『ウルトラマン』であった。『ウルトラQ』は、従来の、映画/テレビ特撮同様に、南洋、南極、樹海といった異境が舞台化されていたが、『ウルトラマン』になると、幾つかのエピソードで異境描出はあるものの、やがてそれは影を潜めていく。そして、欧米化することで手にできる豊かな未来を夢想し、その推進力となる科学への憧憬を抱きつつ、開発や経済成長の美名のもとで、各地方のもつ場所性や、子ども時代の豊かな時間を享受するための遊び場が剥奪されていく様相が映し出されるようになる。これは異境から東京(に代表される同時代の日本)へのまなざしの変移であり、同時に、ツーリストからドキュメンタリストへのまなざしの変容とも言えるものだった。

→詳細は博士論文「2-3-4 テレビ特撮のもつ俯瞰的表象性―異境へのまなざし」、「2-3-5 『ウルトラマン』シリーズにおける俯瞰的表象性の変容―ツーリストのまなざしからドキュメンタリストのまなざしへ」参照

近代的視覚文化の想像力から、同時代ドキュメンタリーの想像力へ

/特撮の俯瞰的表象性が、ツーリストのまなざしからドキュメンタリストのまなざしへと推移していくことについて述べた。戦後、特に1950~1960年代、多くの文化人によって共有されていた、戦後アヴァンギャルドの思潮とは一言で言えば、社会の諸事象から既成概念を取り払い、その事象のもつ現実的、今日的な状況を発見するというものであった。同時代の映像作家らはこの観念をドキュメンタリーによって具象化していたが、中でも脚本家の佐々木守、そして監督の実相寺昭雄は『ウルトラマン』シリーズにその想像力を持ちこんだ。

→詳細は博士論文「2-4-1 近代的視覚文化の想像力から、同時代ドキュメンタリーの想像力へ」参照

ドキュメンタリーについてー『キング・コング』のドキュメンタリー性

/黎明期のドキュメンタリーは、肉眼では不可能な「記録」という行為を、科学者が機械の目としてのカメラに担わせるものであった。肉眼を離れるという想像力はやがて、自らの生活圏、文化圏を離れたものを記録する想像力につながり、ドキュメンタリーは異境を描くようになる。またフィクションの手法を取り入れたドキュメンタリーや、ドキュメンタリーの手法を取り入れたフィクションが作られるなど両者は近接、融合を幾度となく繰り返す。『キング・コング』(1933年)はそのような波の中でドキュメンタリー作家によって作られた怪獣映画であった。本作はステレオタイプともいえる過剰な装飾を施された後進地としての異境で、原住民から神のように恐れ崇められていたキング・コングが興行師によって近代的な都市に引き込まれ、最後には最新の高層建築物であったエンパイアステートビルから落下死するという物語である 。これは西欧中心の政治や文化が後進地、外部としての異境を西欧中心の秩序の内側に取り込むことで駆逐、搾取するという近代社会の構造を、ドキュメンタリーが扱ってきた異境を舞台として表象したフィクションであった。

→詳細は博士論文「2-4-2 ドキュメンタリーについて」参照

ポップカルチャーとサブカルチャーーアンダーグラウンドの系譜としてのサブカルチャー性は『ウルトラマン』シリーズにどう描かれたか

/特撮やアニメ、ゲームなどは、いまだにサブカルチャーと称されることが多い。サブカルチャーとポップカルチャーはどう違うのだろうか。

サブカルチャーとは、そのサブの接頭辞が示す通り、元来は「下位」の文化を指すものであった。だが社会的な階層差が欧米のようなかたちで存在せず、愛好する文化の階層が顕現していない日本では、サブカルチャーは広く一般大衆に訴求する領域に根付いた。メインではない文化だから、とりあえずサブカルチャーにカテゴライズされたという面もあるだろう。

2021年の東京オリンピックの開催にあたり、開会式の作曲担当であったミュージシャンが過去にいじめの加害経験があり、それを成人後も反省することなく、むしろ誇らしげに雑誌上で回想していたことが問題視され、そのミュージシャンは担当を辞任することとなった。このとき、タレントの太田光(爆笑問題)は、このミュージシャンの発言が、雑誌の編集段階で問題視されずに掲載されていた―つまりそのような発言が大きく問題視されずにいた―ことに触れ、「サブカルチャーにそういう局面があった」と発言した 。これはサブカルチャーという概念が、旧来的には反道徳的な性質を有していたことを感覚的に捉えた表現であっただろう。それはサブカルチャーが一つには、かつて「アンダーグラウンド」といわれてきた領域を抱合していることに由来する 。これらのことを考えたとき、サブカルチャーとポップカルチャーは近似的ではなく、むしろ対照的であることに気が付く。

しかしここで最も考えなくてはならないのは、無意識に特撮やアニメを「サブカルチャー」に括ることで、本来のアングラ文化的な意味でのサブカルチャー性がそれらに内在していることを見逃してしまっている点である。児童を主たる視聴者層と捉えたテレビまんがにも、そしてテレビ特撮、あるいは『ウルトラマン』シリーズにもアングラ文化=サブカルチャー性の発露はあった。冒頭から「北斗七星が消えた」という不条理劇的な展開を見せ、怪獣の苦しみを感応し狂乱する女性(演じるのは大島渚監督『新宿泥棒日記』で主演した横山リエ)主体に物語が進む『帰ってきたウルトラマン』第23話「暗黒怪獣星を吐け」は、サブカルチャー性が顕現したドラマであった。

→詳細は博士論文「2-5-1 アンダーグラウンドの系譜としてのサブカルチャー」、「2-5-3『ウルトラマン』シリーズにおけるアンダーグラウンド性」参照

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