Opinion

大学の役割と進学率

 かつて、田中真紀子文科相がいくつかの新設医大学を一時、不認可にした際、朝日新聞で、大学教育問題についての各論が掲載されていた。
 そのうちの一人は、大学進学率を上げることが必要なのだという。現状、50%程度の大学進学率を一層高める必要性があるのだと。その理由に、高卒での就職が困難であるという実情が語られている。

 吉川徹の『学歴分断社会』を最近読み、今日の、大卒層(院卒、大卒、短大卒)と非大卒層(専門校卒、高卒、中卒)の差の開きに歴然とした。だから、高卒層が窮地にあるのはわかる。しかし、だからといって、学究に興味のない者がステータスのために大学に行く流れを加速させるのには反対だ。むしろ、前掲書の著者が提案しているとおり、学歴を「重学歴/軽学歴」と捉え直し、「重/軽」を即、「優/劣」としない取り組みの方が大切ではないか。
 
 また、相変わらず教育をビジネスモデルになぞらえ、淘汰されるべきという意見にもうんざりした。
 各大学に就職率を競わせ、率の高い大学にはより多くの助成金を払うべきという意見だ。
 大学生にとって、就職の可否や、就職先の優劣は死活問題である。だが、大学は就職予備校ではない。企業が「即戦力を」というのを狭義に捉え、対症療法的にビジネスマン養成を計ることに意味があるとは思えない。
 むしろ、その学部学科で、自分が打ち込むべき演習テーマを見出し、課題を設定し、導かれる結論を推論し、そこに行き着くための研究方法を考察、遂行し、指導教官やゼミ生と協議し、調整していくというプロセスが結果、社会人として生きていく上で必要なスキルになっていくというのが理想ではないか。

 一方で、世界的に見れば、大学進学率の上昇が国力の上昇につながるのだとも書かれていた。けれども、学びの有用性を知らないまま、ただ大学に送り込まれても、それは本人のためにも、国のためにもならない無益なモラトリアム人間を増やすだけだ。効果をもたらすためには、学びの有用性を18歳までにしっかり見出させ、自分はどの分野で力を生かすことができそうなのかというビジョンを抱かせる取り組みが必要であると思う。